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雨上がりの道はぬかるんでいて、気をぬくと足を取られそうになってしまう。 光は逸る気持ちを押さえて押さえて、佐為の屋敷へと向かっていた。 使いの者たちが口篭もったのももっともだった。彼らは佐為の病を告げようと屋敷を出かけた途端、金縛りにあったというのだから。 『…呪、かもしれない』 咄嗟に誰もがそう思ったけれど、それは口にはできなかった。 やっと訪れた平和が壊れる音は、誰だって聞きたくないから。 だから光も一人で走っている。 とにかく佐為に会わなければ。この目で様子を確かめなければ。 立てない状態なのだと、彼らは言っていた。高熱で、水で濡らした手ぬぐいを当ててもすぐに乾いてしまうほどで。 でも医者を呼ぼうという、皆の意見を佐為は決して許さなかったという。 …何故? やはり呪詛なのか? 「佐為っ!」 門をくぐりながら、いつもより薄暗く感じる屋敷に向かって光は大きな声を出した。当然誰も出迎えない玄関を駆け上がり、バタバタと大きな音を立てながら廊下を走る。 「佐為っ」 優しい笑顔で『そんなに音を立てて廊下を走ると床が抜けますよ』と、諭して欲しかった。いつものように。 「佐為、どこだ?」 いつもの部屋に佐為の姿はなくて、光はますます声を荒げる。さして広くない屋敷の中で佐為がいそうな部屋を考えて、その時間がもったいないかのように駆け出そうとする。 「光…」 小さな、小さな声だった。あまりにもか細い震えた声に、光は一瞬耳を疑って立ち止まる。 「光?」 確かに佐為の声だと確信した光は、目の前の引き戸を引いた。 「佐為っ」 布団から出ようとして、片肘をついている佐為の姿がそこにあった。 もともと白い肌は蒼白しているように見え、高熱の証とでもいうように頬だけが赤い。 烏帽子を外している佐為を、そういえば光は初めて見た。長い髪は乱れていて、いつもより少しだけ、落ち着いて見える佐為を幼く見せていた。 「どうしちゃったんだよ?!」 昨日の夕方一局指導碁を打ってくれた佐為はまだ元気そうだった、と光は記憶を辿る。 「すみません、光…昨日の夜から熱が出たようで…こんな有様です」 力なく微笑む佐為の呼吸はひどく浅かった。 「なんでなんだ?」 光の問いに困ったように、佐為は目を逸らして庭に顔を向けた。つられて光も同じ方向を見る。 夕闇が迫ってきているのが、陽の色の変化で分かる。庭では手入れされた緑たちが、雨露を孕んできらきらと輝いている。 「…呪、なのか?」 佐為が答える気がないことは、横顔だけで十分に光には分かっていたけれど、それでも聞かずにいられなかった。 「ねえ光、雨のこの時期は嫌だけれど…」 問いとは違った言葉を、佐為は呟くように唇から吐き出す。不審に思いながらも、光はただその続きを待つことしかできない。 「この時期を過ぎないと夏がこないんですよ。…うまく言えませんけど、私の熱はそういうものなんじゃないかと…」 そうしてやっと佐為は光をまっすぐ見て唇の両端を上げて見せた。その人でないもののような笑みに、光は驚きを隠せずに髪を掻き毟った。 「ああもう!俺にそんな難しいこと言ってもわかんねーよ!とにかくどれくらい熱があるんだよ?」 話題を変えようと手を伸ばした光の指先が、佐為の額に触れた瞬間。 「痛っ…」 佐為の悲鳴が響いた。反射的に指先を引っ込めた光の指先には痺れが走っていた。額を左手で押さえた佐為が震えながら光を見上げる。その視線に気づいた光が、痺れが残る指先から佐為へと視線を移した。 「………」 無言のまま、二人は顔を見合わせる。 「今の…何だ?」 掠れた声で光が声を絞り出した。蒼ざめた佐為が力なく首を横に二度、三度と振る。 「佐為…お前本当は分かってんだろ?なんで教えてくんないんだよ?! 俺に隠し事なんかしたことないだろ?」 叫ぶように言ったつもりが、まるで囁くほどの声量。光は自分の喉を疑った。 怯えているのだ、自分は。 「…光、本当はあなただって少しは思い当たっているのではないのですか?」 静かな声が、薄暗くなってきた部屋に響いたとき、何かが庭にポトリと落ちた。 「なんだ、あれ?」 立ち上がり、光が庭に降り立ったとき、小鳥のさえずりが短く鳴った。 「あの鳥…」 見上げた空では、夕焼けが西を朱に染めていた。 そして光の足許には、この庭には植わっていない松の小枝。 「…もしかして…今の鳥…賀茂の式神…?」 しゃがんで拾った小枝を手に収めた瞬間、動悸が光を襲った。 |