全部抱き締めて

+++  2 +++


雨上がりの道はぬかるんでいて、気をぬくと足を取られそうになってしまう。
光は逸る気持ちを押さえて押さえて、佐為の屋敷へと向かっていた。
使いの者たちが口篭もったのももっともだった。彼らは佐為の病を告げようと屋敷を出かけた途端、金縛りにあったというのだから。

『…呪、かもしれない』

咄嗟に誰もがそう思ったけれど、それは口にはできなかった。
やっと訪れた平和が壊れる音は、誰だって聞きたくないから。
だから光も一人で走っている。
とにかく佐為に会わなければ。この目で様子を確かめなければ。
立てない状態なのだと、彼らは言っていた。高熱で、水で濡らした手ぬぐいを当ててもすぐに乾いてしまうほどで。
でも医者を呼ぼうという、皆の意見を佐為は決して許さなかったという。
…何故?
やはり呪詛なのか?



「佐為っ!」
門をくぐりながら、いつもより薄暗く感じる屋敷に向かって光は大きな声を出した。当然誰も出迎えない玄関を駆け上がり、バタバタと大きな音を立てながら廊下を走る。
「佐為っ」
優しい笑顔で『そんなに音を立てて廊下を走ると床が抜けますよ』と、諭して欲しかった。いつものように。
「佐為、どこだ?」
いつもの部屋に佐為の姿はなくて、光はますます声を荒げる。さして広くない屋敷の中で佐為がいそうな部屋を考えて、その時間がもったいないかのように駆け出そうとする。
「光…」
小さな、小さな声だった。あまりにもか細い震えた声に、光は一瞬耳を疑って立ち止まる。
「光?」
確かに佐為の声だと確信した光は、目の前の引き戸を引いた。
「佐為っ」
布団から出ようとして、片肘をついている佐為の姿がそこにあった。
もともと白い肌は蒼白しているように見え、高熱の証とでもいうように頬だけが赤い。
烏帽子を外している佐為を、そういえば光は初めて見た。長い髪は乱れていて、いつもより少しだけ、落ち着いて見える佐為を幼く見せていた。
「どうしちゃったんだよ?!」
昨日の夕方一局指導碁を打ってくれた佐為はまだ元気そうだった、と光は記憶を辿る。
「すみません、光…昨日の夜から熱が出たようで…こんな有様です」
力なく微笑む佐為の呼吸はひどく浅かった。
「なんでなんだ?」
光の問いに困ったように、佐為は目を逸らして庭に顔を向けた。つられて光も同じ方向を見る。
夕闇が迫ってきているのが、陽の色の変化で分かる。庭では手入れされた緑たちが、雨露を孕んできらきらと輝いている。
「…呪、なのか?」
佐為が答える気がないことは、横顔だけで十分に光には分かっていたけれど、それでも聞かずにいられなかった。
「ねえ光、雨のこの時期は嫌だけれど…」
問いとは違った言葉を、佐為は呟くように唇から吐き出す。不審に思いながらも、光はただその続きを待つことしかできない。
「この時期を過ぎないと夏がこないんですよ。…うまく言えませんけど、私の熱はそういうものなんじゃないかと…」
そうしてやっと佐為は光をまっすぐ見て唇の両端を上げて見せた。その人でないもののような笑みに、光は驚きを隠せずに髪を掻き毟った。
「ああもう!俺にそんな難しいこと言ってもわかんねーよ!とにかくどれくらい熱があるんだよ?」
話題を変えようと手を伸ばした光の指先が、佐為の額に触れた瞬間。
「痛っ…」
佐為の悲鳴が響いた。反射的に指先を引っ込めた光の指先には痺れが走っていた。額を左手で押さえた佐為が震えながら光を見上げる。その視線に気づいた光が、痺れが残る指先から佐為へと視線を移した。
「………」
無言のまま、二人は顔を見合わせる。
「今の…何だ?」
掠れた声で光が声を絞り出した。蒼ざめた佐為が力なく首を横に二度、三度と振る。
「佐為…お前本当は分かってんだろ?なんで教えてくんないんだよ?! 俺に隠し事なんかしたことないだろ?」
叫ぶように言ったつもりが、まるで囁くほどの声量。光は自分の喉を疑った。
怯えているのだ、自分は。
「…光、本当はあなただって少しは思い当たっているのではないのですか?」
静かな声が、薄暗くなってきた部屋に響いたとき、何かが庭にポトリと落ちた。
「なんだ、あれ?」
立ち上がり、光が庭に降り立ったとき、小鳥のさえずりが短く鳴った。
「あの鳥…」
見上げた空では、夕焼けが西を朱に染めていた。
そして光の足許には、この庭には植わっていない松の小枝。
「…もしかして…今の鳥…賀茂の式神…?」
しゃがんで拾った小枝を手に収めた瞬間、動悸が光を襲った。



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