其の六
命にもまさりて惜しくある物は 見果てぬ夢のさむるなりけり
----壬生忠岑
障子を引くと薄い闇が部屋を支配した。
行洋が差し伸べた手に、佐為はそろりと己が右手を添えて立ち上がる。
衣擦れの音と、動きに合わせて流れる黒髪の音が混ざり合う。
碁盤から僅か数歩の距離にある寝具の隣に佐為を導き、行洋は腰を降ろした。
その動きに習って膝を折りかけ、佐為ははたと動きを止めた。
「どうかしたか?」
問い掛ける声音の心配そうな響きが心地良かった。
「いえ、ただ…この衣は難しかろうと思って…」
くすっと小さく笑って見せると、佐為は腰の宛帯をするりと引っ張った。しゅるしゅるという密やかな音と共に、たくり上げられていた布が床に滑り落ちた。
行洋の視界に純白が広がる。
その視界の中にいることを十分に察しながら、佐為はゆっくりと両の袖から腕を抜いた後、惜しげもなく綾に織られた白絹を床に落とした。そうして静かに座りなおし、行洋を見上げる。
「後は…恐らくあなたの着ているものとさして変わりはないかと」
行洋は軽い眩暈すら感じながら、鮮やかに己を煽るその艶然とした姿を見ていた。
障子越しの月の光はただただ淡く、そして白かった。
薄い単と指貫だけになると、随分と細い躯をしていることが行洋にも見て取れた。想像以上に小さな肩にむかって手を伸ばす。
抱き寄せると、鼻腔を刺激する強い香りに近付いた距離を感じた。骨の細さを感じさせる、頼りない柔らかさが腕に伝わる。
「鼓動が高く、耳で鳴ります」
身を寄せ胸元に耳をあて、佐為が呟く。
「…だろうな、ひどく緊張しているから」
照れを隠そうと低い声で答えると、佐為の手が行洋の手首をとった。そのまま自分の胸元に導いて宛がう。掌に響く駆け足の鼓動。
「私も…ですよ」
見上げてくる目線の甘さに誘われるままに口接けた。
後ろから抱き締めると、肩がすっぽりと行洋の胸元に収まった。その華奢さに改めて驚かされる。
平安時代の平均的体格を考えれば、それも当然のことであったが、今の行洋には遠い知識。
耳元に唇を寄せ、耳朶に触れる。肩の震えが腕に正確に伝わる。
碁石を打ちつづけることで武骨になった指先が、黒髪を梳いて、後れ毛を耳にかける。形のいい耳を露にした指は、そのまま頬骨を伝い、ほっそりとした頤(おとがい)を撫でた。
「佐為…」
ずっと心で唱え続けていた、記号のようなその名前は、今新しい呪文へと変化を遂げていた。口から音として出て行った後で、心で何かが鳴るような。
鼓膜を揺さぶるべく放り込まれた自分の名前を、佐為はそのまま躯の奥で素直に受け止めた。愛しさが情欲へと変わってゆく、そのたゆたうことなき流れを響かせる声。
抱かれること。触れられること。愛されること。
その甘美な記憶は、悠久の彼方へ置いてきてしまっていて、佐為は少し戸惑っている自分を自覚する。そうして部屋に撒かれている薄闇から、自分が脱いだ白い狩衣へと視線を移し、最後に素足の爪先に目をやった。
なんと色のある風景か。
少々気恥ずかしくなるほどの、その艶から逃げるように佐為は身体の力を抜いて瞳を閉じた。
唇が触れただけでその柔らかさを教える耳朶を、行洋はゆっくりと口に含む。ひんやりとした感触を甘噛みで味わってゆく。
「…っ…」
小さくではあったが、佐為が息を飲む音が響く。それを気配で察して、行洋は両の腕に一度力を込め、それから肩を撫でた。肩骨からなぞって行くと、浮いた鎖骨の曲線が指先に響いてきて行洋の心を逸らせる。その肌を隠す絹たちは、透けそうなほど薄い癖に、決して全ては見せてくれない。
襟からそっと右手を差し入れる。まだ見ぬ素肌に触れることは、行洋を密やかな気持ちにさせた。
薄い絹が手の甲に、薄い肌が手の平に、それぞれの柔らかさを伝えて行く。皮膚が薄いのか、ほんの少しでも傷付ければ、すぐさま血が流れ出そうな、そんな危うさを指先が感じ取った。
左手で衣紋襞をそっと引いて、襟元に余裕を作る。はだけた胸元は単の朱色とあいまって尚白く映った。
息を飲んで、指を滑らせて行く。胸元の突起を探り当てた瞬間、佐為が吐息を詰めて全身を強張らせた。その痛ましいほどの反応に、行洋はこみ上げてくるいとおしさを隠すように苦笑いした。同時に湧き上がってくる欲情が、ためらいを解放してゆく。
幾重かの布を引き上げ、左肩を暴く。障子越しの頼りない月光は、妖しいほどにその白さを彩る。
項から唇を這わせ、胸元への愛撫を続けて行けば、肌が粟立ってゆく様をそのまま感じとることができた。
「…あっ…」
漏れ落ちる声の切なさが、夜闇に一瞬の輝きを放ち、溶けて行く。
その瞬間、行洋は佐為の表情を見たいと痛切に思った。
其の七
<其の六・備考>
宛帯…あておび。狩衣の腰の部分をとめる帯。前から見るとたくし上げた布の下で隠れている。
単…ひとえ。狩衣の下にきている上衣。白い小袖の場合が多いが、
この場合原作の描かれ方を見て、単と判断した。
指貫…さしぬき。はかまのこと。
衣紋襞…えもんひだ。単は身体より大きな布をあて、ひだを作って着る。