其の壱





もう一度…もう一度saiと打ちたい。
あの一局。胸躍るような、神の一手ヘと歩み寄って行くかのような、あの一局。
忘れられない。忘れようがない。
出来うるなら…碁石を持ち、碁盤に魂を思うさまぶつけて最善の一手を追求しあう…
そんな風に、再戦したい。



塔矢行洋は、秘めたその願いの温度が上がって行くのを持て余していた。
あの対局から一年以上が経った。
ネット碁であったにも関わらず、気迫を存分にぶつけあった一局は、多くのことを塔矢行洋に教えるものだった。
碁が生活の手段になり過ぎていたこと。
真剣な一局が持つべき崇高さ、神の一手へ繋がる道程の長さと美しさ。
そうして塔矢行洋自身が、碁を愛する想いの深さを今一度。
だからこそ潔く引退し、鍛錬する日々を選んだのだ。
毎日、碁と真剣に向かい合う。打ちながら見えない相手を見つめ続ける。
姿見せずして、自分を負かしたあの相手を。
いつか、向かい合えるだろうか。あいまみえて、碁盤を挟んで、あの者と再び渡り合える日が来るのだろうか。
どれほどの鍛錬を積めば、次の一局で倒せる力を得ることができるのだろう。
あの気が遠くなるほど大きな半目を、自分はもう埋めたか。まだ開きがあるのか。
見えない。
素性知れずの相手とでもあんな素晴らしい碁を打てるという純粋な喜びは、一年以上が経った今となっては行洋の中で苦しみにも近いものへと進化を遂げていた。
さまざまな想いが交錯し続ける。
自分があの時白だったなら、どうだったのだろう。黒番が六目半のコミとなろうとしている現在の状況を考えれば、それはありえないようにも思える。
けれど必ずしもそうとも言い切れない。
ではあの時ああしていれば…。
こう打ち込んでいれば…。
碁盤の向こう側に相手を認めないままに、棋譜を並べ、展開を思い描いたところで結局は一人芝居だ。
「………」
行洋は溜息をついた。
一人碁盤に向かうとき、気付けばいつも思考はあの一局へと向かってしまっている。まるで熱病に取り付かれたかのように。
そして最後は祈るかのように、願わずにはいられない。

----死ぬまでにもう一度、saiと対局したい。

自分に残された時間があとどれほどあるのか、計り得ないからこそその願いは色濃くなってゆく。
一度倒れるということを経験した身体は、死への恐怖を抱くと同時に、覚悟をも刻み付けていた。
いつかは死するのだ。
今の望みは唯一つ。
立ち上がり、行洋は窓際へと歩み行く。窓から仰ぎ見る空はいつもの東京の空より星を多く抱いていた。雨上がりのせいかもしれないと、思考を泳がせながらしばらく夜空を眺める。
「もはや惜しくない命だ、神よ…」


呟いた先は、神のみぞ知る。
夏の近い夜だった。







其の弐



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