其の弐




多くの神が気紛れを起こす。
どんな宗教のどんな聖典でも奇跡が起こっていることは、周知。
日本の中で誰もが知っている、その奇跡の習慣は夏。




その家は、庭が広いため夏でも夜更けともなれば冷房がいらない。
涼やかな空気がじんわりと庭から這い上がってくる。夏の風物詩、風鈴が心地良い鈴音を運んでくる。
今宵も碁と思う様向き合っていた塔矢行洋は、その涼やかな音を楽しんでいた。少量の酒を嗜んだ後、また碁盤の前に腰を降ろし、なおも盤面を見つめ続けている。
軽やかに響く鈴の音。
少しずつ、音の間隔が遠くなってゆく。音の余韻が長くなってゆく。
夢と現の境目で、それは緩やかに聴覚から遠ざかって行った。



薄い闇の中に、行洋は佇んでいる。目前には碁盤。
きちんと紋付袴を身に纏っているらしく、身動きと共に衣擦れの音がする。
霧がかかっているのか、碁盤より遠くはよく見えない。
少しずつ、薄闇に目が慣れてゆく。視界が少しずつ広がる。碁盤の奥には畳がうっすらと見え、どうやらここが自分の居室であることがなんとなくだが分かってくる。
そんな矢先、不意に高い音が聴覚を揺らした。流れるような旋律が、集中力を奪う。
「…横笛…か?」
微かに漏れる吐息の音に、その音色を生む楽器に思い至った瞬間に、音はやんだ。
数秒の沈黙の後、畳の軋む音がした。
人の気配…それも知らない人間のもの。
行洋は息を飲んで、碁盤から視線を離した。
…素足の蒼白い爪先が、今まさに視界に入らんとしているところだった。静脈の蒼さが、足の甲で際立って映る。
ゆっくりとしか、視線を移して行けない自分に行洋は焦った。まるでコマ送りのようにしか、目前の相手を観察できない。
入り込んでくる一コマ一コマが、あまりにも鮮やか過ぎて。
踝から足首へと描かれる曲線の細さに目を見張った瞬間、濃い紫色の袴の裾がふわりと動いた。
その刹那、一気に行洋の視界が開ける。
純白の狩衣姿の若者が、そこに立っていた。先ほどの旋律を生んでいたものであろう横笛を右手に携えて。
視覚に月光が差し込んでくる。聴覚に訴えかけるは、いつしか早い己が鼓動と、浅くなっている呼吸。そうして嗅覚をくすぐるのは、焚き染めた伽羅の香り。
「…誰だ…?」
絞り出された声音の震えは、恐れとは少し種類の違うものだった。
月の淡い光のせいで、相手の表情が読み取れない。行洋はそこに立っているのが男なのか女なのか、それ以前に人間であるのかどうかすら判断できず、ただ見上げる。
長い垂髪に立烏帽子、幾ばくかの後れ毛が頬にかかる。自分を見つめる眼差しの強さと、真一文字に横に引かれた唇の緊張が読み取れて、行洋は視線を表情から外せなくなった。
まるで牽制しあうかの如く、見詰め合うこと数秒。不意に相手が口元を緩ませた。口角がきゅっと一瞬上がって、瞬きを一つ。そうして浮かんだ笑みに、行洋は一呼吸を完全に奪われる。
「あらざらん…」
しっかり行洋を見据えていた視線を少し遠くに移して、その唇はゆったりとした節をつけてその句を音にした。
「まさか!」
驚きのあまり声を荒げてしまう。

---- あらざらん

それは今年の七夕に、行洋が短冊にただ一言書いた言葉だったから。
明らかに動揺した反応を楽しむように、相手は左手の袖口をを口元にあてながら今度はにっこりと笑い、そして碁盤の前に座った。笛を傍らにそっと置き、ゆったりとした仕草で袴の裾を捌いてゆく。
姿勢を正して盤面を覗くと、満足気に頷いて見せた。
ゆっくりと視線を上げ、驚きの表情で自分を見る行洋に向かって一言。
「…いい一局でしたね」
「……」
もう理屈ではなかった。無言で行洋は盤上のあの一局と、目前の相手を見比べる。次の瞬間、一時停止していた思考回路が一気に動き出した。
「saiか?お前がsaiなのか?」
問いながら、言わずもがなな事を口にしている自分を、行洋は無粋に思う。それでも聞かずにいられないほど、己の中で渦巻き始めている昂揚感がそこにはあって、それは抗いがたいものであった。
その沈黙の後の性急な問いに驚いたか、瞳を丸くして、相手はこっくりと一つ頷いて見せた。そのあどけないまでの表情に行洋が目を見張った次の瞬間、くっと顎を上げ胸を張った平安貴族さながらの姿がそこに現れた。
「…ええ、私は佐為、藤原佐為」
気合の込められた声音に、行洋は確信した。
あの時と同じ気迫がそこにある。
…望みは叶えられたのだ。
そして行洋の気持ちの動きを見透かすかのように、佐為は静かに告げた。


「あなたが書いた短冊に惹かれて、今宵は一局打ちに参りました」









其の参



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