神すら触れぬ柔らかい場所
***3***


「…なんで?」
そう言う声も震えてた。
「君だってもうプロ棋士なんだし、やっぱりいい碁盤で打ったほうがいいと思うしね」
何が気に入らないのか、僕にはさっぱり分からなかったから、思ったまでを口にした。
瞬間、進藤が本気で怒ったのを空気で、肌で感じさせられた。
ぶるぶると怒りで打ち震えている。まさに、彼はそんな感じだった。
「…帰れよ」
顔を真っ赤にして、両の瞳に涙を溜めて、進藤はそう言った。
「え?」
本当に、わけがわからなかった。
「お前がそんなこと言うと思わなかった!打たせるんじゃなかった!」
ひどく激昂している彼は、頬をつたう涙も気付かないようだった。勢いに飲まれて何も言い返せない。
「進藤…」
「帰れ!帰れってば!帰ってくれよ!」
傷付いた瞳をして、進藤は叫んだ。
「進藤?何か気に障ったなら謝るよ。ごめん」
僕はただただ驚いて、口から出るままに謝罪の言葉を口にした。
「とにかくもう帰ってくれよ!」
有無を言わさない態度だった。立ち上がり、僕の手を引き掴み立ち上がらせようとする。
何がなんだかわからなかったけれど、とにかくここを出るしかないのだと、ようやく分かった。今の進藤は手がつけられないほど怒り狂っているらしい。
「…ごめん」
何が悪かったのか、はっきりと分からないままに僕はもう一度謝って彼の部屋を出た。
大きな音を立てて彼はドアを思い切り閉めた。
その音でやっと彼に拒絶されたことに気付いたほど、僕は状況が飲み込めていなかった。
でも、自分が傷付くよりも早い速度で、耳に響いてきた進藤の泣き声に哀しくなった。
進藤…君はいったい何にそんなに傷ついた?
「ヒカル、どうかした?」
進藤のおかあさんが、大声を聞きつけて階段を上がってきた。
そうして、部屋の前に立ちつくす僕を見て驚いた表情をした。
「…喧嘩でもしたの?」
にっこり笑いかけてくれるその表情は、ひどく心配そうだった。



「ごめんなさいね、あの子…突然感情的になるところがあって」
台所に通されて、あたらしくジュースを出されて、ひどく緊張した。
進藤のお母さんは、何も聞かずにひたすらに謝ってくれて、僕のほうが申しわけなかった。
「去年の5月だったかしら…」
僕から視線を外して、彼女は思い出すような表情をした。
「いきなりあの子、私に何も言わず外泊したの。ちゃんと帰ってきたのはきたんだけど…その後かしら…様子がおかしくなってね」
5月…進藤が手合いを休み出した頃だ。確かにあの頃の彼は様子がおかしかった。
「おかしくなったとは?」
でも詳しい話を聞きたくて、僕は尋ねてみた。
「塞ぎこんでしまって…全然部屋で碁を打たなくなって…ご飯もあんまり食べてくれなくてね…心配させられたわ」
心底心配していたのが、分かる顔だった。
「あの子ね…私の知らないところで何かをなくしてしまったみたい。毎日暗い顔して学校に行ってたわ。何ヶ月かして…立ち直ってくれたみたいだったけど」
何かをなくした?
彼を包むあのオーラは喪失だったのかと、そう聞いて思い至る。僕が彼を学校に訪ねていったとき、確かに彼は例えようもないほど落ち込んでいるように見えた。
でも何故?彼はいったい何をなくしたっていうんだ?
「…そうですか…」
「塔矢くん、おかしなことだけど…あの子、自覚はなかったかも知れないけど、部屋でよく独り言を言っていたのよね。誰かと一緒にいるのかと…たまに心配になるくらい…。それがその5月以降ぱったりなくなったの」
言うか言わないか、迷ったあげく、彼女が口を開いているという雰囲気は、痛いくらい伝わってきた。確かにひどく突飛な内容で、僕は理解に苦しんで相槌も打てなかった。
「……」
「ごめんなさい、変な話よね。聞かなかったことにして。…あと、よかったらあんな子だけど、これからも仲良くしてやってくれる?あの子には私からよく言っておくわ」
何か、大事なものを掴み損ねたような気がした。
もっといろいろ聞きたかったけど、進藤のお母さんはもう何も言ってくれそうになかった。
玄関まで見送ってもらったとき、ふっと大きすぎる進藤の傘が目についた。
誰かと一緒に…?
その言葉が自分の中で大きく木霊してくるのを感じた。




雨の中、ひとり歩く。
さっき聞いた話を何度も何度も反芻する。
部屋で独り言を言っていた…5月以降それがなくなった…。
まるで難解なパズルだ。
誰かと一緒に。
何故かその言葉が胸にひっかかった。
あの大きすぎる傘…本当に誰かと一緒にいたのかもしれない。
でも一体誰と?
なにか自分の手には負えないような、大きなものを抱え込んでしまったような気がした。




進藤から電話を貰ったのは、それから三日後のことだった。
「こないだは…ごめん」
開口一番謝罪を口にした彼の口調は、叱られた子供みたいで、なんだか可愛らしかった。
「よく分からなかったけど、僕も悪いこと言っちゃったみたいだったね。悪かったよ」
素直にそう言える自分が、やっぱり進藤のことすごく好きなんだって自覚させる。
「…あの碁盤な…俺、めちゃくちゃ大事にしてんだ。宝物なんだよ…だから、なんつーか…かーっときちゃって…ほんとゴメン」
何かオブラートに包んだようなものの言い方だった。
でも、とにかく、彼から電話をもらったことが僕は嬉しかったから、深く考えなかった、そのときは。
次に会う約束を取り付けて電話を切って、温かな気持になって。
部屋に戻る途中、彼との会話を反芻して、あれっと思った。
宝物の碁盤…。
あのとき彼は「打たせるんじゃなかった」と叫んだ。それほどに大事な碁盤なのか?
でも対局前に、彼は「うちで塔矢と打つなんてなんか嬉しい」と言ってくれた。
…混乱する。
それでもどうにも掴みきれない彼の心を紐解くための、それはとっかかりかもしれない。
誰かと一緒にいたかもしれない進藤。
そしてどうやらそれをなくしてしまったらしいこと。
失ったものの大きさゆえに一度は碁をやめようと思ったんじゃないだろうか。
でも結局この世界に戻ってきた彼。
いったい彼は何を秘めているんだろう。
この間の対局の後、「お前にはいつか話すかもしれない」と言ったのは、そのことと関係あるのだろうか?
だとしたら…全ての疑問に答えるのは「sai」だ。




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