無地の短冊


その日は、なんでも囲碁フェスティバルとかいうイベントがあって。
子供達に囲碁を身近に感じてもらうためのイベントということで、指導碁に選ばれたのが若手のプロだったのも、まあ当然のことだった。
若い世代からもっとプロを…と、考える日本棋院が選出したのが、若手で伸び盛りの進藤ヒカルと、早くもリーグの常連となった塔矢アキラだったのも、粋な計らいと言えなくもない。
笹の葉が揺れる、そのイベントはちょうど七夕祭り。



「もっと強くなれますように」
「囲碁が上達しますように」
「院生試験に受かりますように」
…など、可愛らしい文字で願いの込められた短冊達が、会場に飾られた笹を飾っていた。



見た目に圧倒的に子供っぽいヒカルが子供達になつかれてじゃれつかれている姿と、お坊ちゃま育ちのアキラが「囲碁界のプリンス」そのままのオーラを放って子供達を魅了している姿は、どちらも微笑ましいものだった。
イベントも指導碁も、和やかな雰囲気で過ぎていった。
「…お疲れさまです。先生方も良かったら短冊に願い事を書いて下さい。子供達、一緒に飾ったら喜ぶと思うんで」
気のよさそうな事務員さんが休憩室に入った二人に声をかけ、数枚の短冊をおいて去っていった。
表情が一瞬強張ったヒカルに、気づくわけもなく。



「…願い事ねえ…。進藤、君は何て書く?」
冷たいお茶を一口飲んで、アキラはヒカルの方を見た。
子供達に遊ばれて不貞腐れた表情をしているだろうとアキラが想像していた顔とは、明らかに違うものがそこにはあった。
「…進藤?」
遠くを見るような瞳が、短冊に注がれていた。
「…書けねえよ」
そのまま瞳は微動だにせず、ただ唇だけが小さく動いた。
けれど、視線があまりにも大人びていて、アキラは問わずにいられない。
「書けないって…なんだ?」
アキラの声に我に返ったか、ハッとしたようにヒカルはアキラを見て、顔を赤くした。まるで隠しておいたものを見られたような、拗ねたような表情を浮かべて。
「な、なんでもねよ! 願い事なんかいっぱいありすぎて書けねえってことだよ。まだお前には全然追いついてねえし、全然昇段しねえし、手合いなんかショボい相手ばっかだし、秀作の棋譜なんか見れば見るほどすげえし、俺がどんなに打っても打っても…打っても打っても……」
不意に感情的に捲くし立てる。その口調がいつしかずいぶんと水分の多いものになっていっていた。
「進藤…?」
「打っても打っても…届かねえんだ…届かねえんだよ…」
そう小さく押し出すように言った後、真一文字に結んだ唇の上には、見開いた水溜りのような大きな瞳があった。
奥歯を噛み締めて、涙を堪えているその姿の切なさが作る壁を感じて、アキラはただただ立ちすくむ。
ライバルというには大きすぎる存在の彼は、いつからこんなに切ない表情をするようになったのだろう?涙浮かべるその表情が、何故にこんなに大人びているのだろう?
疑問がアキラの中を駆ける。しかもそれは、決してアキラの方から問い掛けてはいけない内容だと、無言でヒカルは言っている。
「それなのにな、塔矢」
雫がついに頬をつたったのは、ヒカルが哀しく笑顔を作ったから。アキラのほうを向いていたけれど、ヒカルはアキラを見ていなかった。その笑顔は、涙を堪えていた時以上に、もっともっと痛々しかった。
「俺な…願い事って言われた時に…年に一回くらいはアイツに逢いたいって…逢いたいって…真っ先に思っちゃったんだ…まだ全然届いてないのに…まだまだなのに…逢いたいって…」
一粒零れ出したら、もう止めようがなくなったか、ヒカルの頬には言葉紡ぐごとに新しい筋が出来て行く。小さな声で呟いているのに、まるでそれは全身を振り絞って泣き叫んでいるかのように、アキラには映った。
「ダメなんだ…俺…なんで願っちゃうんだろう…」
嗚咽につぶされながら、どうにか聞き取ったその呟きの後には、ただ嘆きだけが残った。


どうしてやったらいいのか、分からないで、それでもアキラはただその迸る哀しみを受け止めようとしていた。
それはただそこに佇むこと。
苦しいだけの慟哭を目前に、アキラは逃げなかった。決して広いとはいえないその休憩室に、ヒカルの哀しみは充満していて、重苦しくて、呼吸さえ躊躇うほど。
けれど出て行ってはいけないと、アキラは無意識で知っていた。
その空間を共有すること。ただそれだけのことしかできないけれど、それがどれほど重要なことか。
塔矢アキラがはじめて知った、それが許容という二文字。



「…進藤」
しゃくりあげる肩の動きが小さくなって行くのを確認して、そっとアキラは声をかけた。机に突っ伏すようにしていたヒカルが、驚いたように顔を上げた。
「塔矢…ずっとそこに…?」
小首を傾げるヒカルの仕草が、急に子供っぽくてアキラはふっと微笑んだ。
「…あ…」
その自分の全てを許してくれるような微笑みは、もうずっと見ていない種類のもの。懐かしい、…それはまるで。
「いいんじゃないかな、短冊…書かなくても」
さすがに見詰め合うのが照れくさくなったか、アキラはそのまま踵を返して置かれたままの短冊を手に取った。
「書かないままで吊るしたらいいじゃないか? 誰にも読めない願いがあったって、それはそれでいいと思うな、…願いは願いだよ、叶わなくってもいいものなんだし」
静かに言った後、振り向いた。
「おっと、そろそろ時間だね。僕は先に行くよ。あーあ、僕まで短冊に書き損ねちゃったよ」
時計を見ながら溜息混じりに言う様子は、いつもの塔矢アキラそのままだった。
「なんだよ!勝手にそこにいたんだろ!」
閉まるドアに向かってヒカルもいつも通り、怒鳴っていた。
けれども足音が遠ざかったのを確認してからポツリ。
「…ありがとな、塔矢」


願ってもいいと、ただ誰かに許容されること。
あの日からもう一年以上が過ぎているのに、ただそれだけの許しが、新しい涙が込み上げるほどありがたかった。
願いは、願いだ。
もう二度と逢えないだろう。そんな事分かってる。
でも願ったって構わない。願いは、願いなんだから。
無地の短冊を手にとって、ヒカルは一度目を閉じて、それから微笑んだ。





笹の葉さらさらのきばに
揺れるお星さまきらきら
金銀すなご


子供達の歌い声が会場いっぱいに響く。
みんな思い思いの場所に短冊を吊るしていく。
アキラとヒカルも子供達に囲まれながら短冊を吊るした。
「あれ?進藤センセ、願い事書かないの?」
「あれー?塔矢センセイもだよ?」
「どうして?」
「どうして?」
子供達の矢継ぎ早の質問に苦笑しながらアキラが答える。
「センセイ同士がライバルだからね、お互いの願い事なんて書けないんだよ。ナイショなんだ」
目配せをヒカルに送る。後をヒカルが続ける。
「そうそう!目標がライバルにばれちゃったら面白くないだろ?でもホントはちゃ〜んと書いてあるんだぜ、見えないようにしてるだけで」
そう言ってニカッと笑ったヒカルの笑顔は、初夏の空の向こうまで突き抜けそうなほど、眩しいものだった。





後書き
勢いだけで書いちゃったんですけど…。
ていうか、こんなの七夕用ですよね(汗)
…ま、近いし、ちょっとフライング七夕ってことで…(汗)

なんていうか、新章のヒカルの心の中に佐為ちゃんが大きく存在してくれているのはとても嬉しいんですけど、きっとさぞや辛いんじゃないかと思って。
でもその悲しみや辛さを、唯一共感はできなくても、受け止めてあげられるのは、うっすらとでも佐為に気付いたアキラしかいないんじゃないかなって。
そんな気持ちをぶつけてみました。
いや〜、稚拙で恥ずかしい!
実はでも、これがちゃんと書き終わった原作設定の初めての小説です。
これ書ききれて、ちょっと自信がつきました(笑)
あ、それなりにアキヒカを書けるぞって(笑:全然健全じゃないか、こんなの!)


そしてこの小説を不躾ではありますが、私がヒカルの碁にハマるきっかけをくださった
Y様に捧げたいと思います。…返却不可の方向でお願いします(笑)


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