恋の味

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塔矢アキラの機嫌がすこぶるいい。
ということに、芦原弘幸が気付いたのは、例の塔矢夫妻の「アキラの服汚しに歓喜する会話」をうっかり盗み聞きしてしまってから、数日後のことだった。
本人は普段と変わらないつもりらしいが、どちらかというと鈍いほうに入る芦原が感じるのだから、きっとこれは相当なものである。
研究会でも笑顔で発言。終始笑顔。とにかく笑顔。
最年少のアキラは、場所が自宅ということもあって飲み物の手配などは普段からこまめにやっているが、その気配りぶりも随分と細やかで、誰もが顔を見合わせるほど。
帰りに門まで見送ってくれる念の入った機嫌の良さに、この日の研究会参加者全員が狐につままれたような気分になった。
そして今日の手合いでは、中押し勝ちが見えていたせいもあるだろうが、なんと食事に行こうと言い出したのだ。
芦原はエレベーターを待つアキラの背中を見ながら、これはどうしたことかと内心困惑していた。
「何にします?僕、この辺り詳しくないんで、おいしいお店があるなら連れてって欲しいんだけど」
エレベーターに乗り込むなり、そういってにっこり笑うアキラ。
「…そ、そうか…旨い店な…。定食屋でもいいか?」
塔矢家で食事をしたことのある芦原は、彼の口に合うような店が果たしてこの辺りにあったかと冷や汗をかいていた。
「ええ、なんでも。…あ、でも、芦原さんおいしいラーメン屋とかって知ってる?」
「ら、らあめん?お前が?」
チン、と軽快な音を立ててエレベーターの扉が開く。
アキラから出遅れること1.5秒。不審に思ったアキラが振り向いたとき、芦原はなんとも訝しげな顔をしていた。
「ボクがラーメンってそんなに変かなあ」
やっと隣に追いついた芦原に、アキラは唇を尖らせた。
「…うん、悪いけどかなりな」
「……」
ちょっとムッとした表情を浮かべるアキラに、芦原は正直ホッとした。こういう表情のアキラのほうがずっとずっとアキラらしい。



かくして、アキラのリクエストにより、ラーメン屋へと場所は移る。
「…で、ここはお水も出てこないけど、ほんとにおいしいの?」
どう注文したらいいかも分からない様子のアキラの代わりに、普通のラーメンとみそを一つずつ頼んでやった途端、これである。
それも、カウンターで。
オヤジに確実に聞こえてる。絶対聞こえてる。今麺茹でる手が止まった。ここのオヤジ、碁のことなんかあんまり詳しくないし、アキラのことなんか知らないよな。やばいっ。
芦原は顔に縦線を走らせながら一瞬でさまざまなことに思いを走らせ、それでもなんとか笑顔を作った。
「アキラ!ラーメン屋ってのは水とかはセルフサービスなんだよ!それにここのラーメンはおいしいぞ〜。まあ、食べたら分かるって」
「ふうん」
きょろきょろと店内を見渡しながら、アキラは納得してるのか怪しい返事をする。
もうこれ以上アキラ主導で喋られたらたまったもんじゃないと、芦原はかなり深刻に考えた。とりあえず水を汲みながら打開策を考える。
なにせ芦原の知る限りでもこれほど温室育ちで純粋培養なお坊ちゃまはそうはいない。
「アキラ、お前なんでまたラーメンなんか食べたいって言い出したんだ?こんなもん喰ったことないだろ?」
できるだけ大きな声で、オヤジと店内の客に聞こえてくれと祈りながら芦原は尋ねる。言外に「コイツこんなもん喰ったことないようなお坊ちゃんなんです、許してやって下さい」という小心者な叫びを含ませて。
「んー…友達が好きだって言うから、どんな味なのかなって」
芦原の質問は、とりあえず彼を店内での危機から脱出させることには成功したらしい。コロリと笑顔を浮かべて、アキラは嬉しそうに返事をした。
「友達?」
これだ、この話題だ。内心ガッツポーズで、芦原はちょっと大袈裟に眉を釣り上げて反応してみせる。
「うん、友達」
にっこり。
…芦原の知る限り、アキラには友達なんて呼べる人間はそういない。
というか、自分以外にいたっけ、そんなヤツ…とすら芦原は思う。
しかし、ここで「誰だ?」と聞くのも、彼の自尊心を傷つけかねないと、芦原は親切にも悩んでしまった。幸か不幸か。
「芦原さん、友達っていいよねえ。なんかこう…毎日が楽しくなる気がするよ」
アキラはそんな芦原の葛藤の存在になど、1ミクロンたりとも目もくれず目を細めた。
ここでようやく、芦原は第二の危機に直面しつつある自分に気付く。
こんな幸せそうな顔して友達っていいよね?…アキラ、それって何か違わないか…?
「なあアキラ」
「ん?」
今度はうんと小声で呼びかけてみる。客の中には囲碁関係者も多いことだろう。この質問はアキラの面子にかけて、小声ですべきだと芦原は思った。
「毎日楽しくって…?」
そんなに友達いなかったのか、今まで?…と言いかけて、はたと口が止まる。15歳の少年にそんなこと言ったら傷つけかねないという、まあさしあたって一般常識的なことに気付いたのだ。
さすが天然棋士・芦原。
「ああ、ほら僕、同年代の友達、今までいなかったから。なんか、こんなにいいものだったらもっと早く欲しかったな。碁に対してもすごくいい姿勢で臨めてる気がするんだ」
生き生きとした表情で話すアキラの、やや紅潮した頬を見ながら芦原は頭痛が音を立ててやってくるのを実感した。
…違う。これは絶対違う。この浮かれた口調、自分にも覚えがないわけではない。ちょうど中学生くらいの頃、友達と話していた内容を思い出せば思い当たるではないか。
そうだ、初めて好きな女の子が出来た時の浮かれ方だぞ、これは。
「アキ…」
「はい、お待たせ!」
意を決して口を開きかけた芦原の前にドンドンと、景気よくラーメンが置かれた。
「頂きます」
丁寧に手を合わせてから食べ始めるアキラの横顔を見て、芦原は大いに悩んだ。



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