神すら触れぬ柔らかい場所
***7***


その夜携帯が何度も何度も鳴った。
着信元は進藤だった。
きっと今日の負けを知って心配してかけてきてくれているんだろう。
想像はついたけど、出れなかった。
だって、負けたことを心配してかけてきてくれているんだろう? それは僕を心配してじゃない、倒すべき強い相手の不調が気になるからじゃないか。
こういう考え方ってひねくれていると、自分でも思うけど、でも仕方がなかった。
今日から父は母を連れて海外に行っている。母は直前まで僕の怪我を心配して、ついて行くかどうか迷っていたようだったけれど、お父さんが「アキラももう子供じゃないのだから」と一言そう言って、それが決め手になった。
お父さんは遅くにできた僕を甘やかさないように気をつけているようだった。それこそ細心の注意を払って、厳しくしているような、そういう愛情だけはしっかり感じ取れる育て方だと思う。
その気遣いには感謝するしかない。
あんな負け方をして、誰にもあわせる顔がない。
何度目かの着信を無視して、僕は自分を落ち着かせるために棋譜並べをすることにした。


「死んだら碁が打てなくなる」
そんなことを、やはり心のどこかで考えていたせいだろうか、選んだ棋譜は「赤星因徹 吐血の局」。勝者は丈和であるにも関わらず因徹の局と言われている理由は、因徹が手合い中に吐血したといわれているからだ。そうでなければ、これは丈和の「三妙手の局」とでも呼ばれていたことだろう。
その類稀な棋力から輝かしい将来を約束されていた幻庵因硯の弟子・因徹。けれど身体が弱く、この対局の時には胸を患っていたといわれている。事実、この対局後二ヶ月で他界しているのだから……対局に向かうその心情たるや、いかほどのものだっただろう。死を知りながら対局に向かうその意気込み。
…初日の鬼気迫る打ち回し。かの有名な三妙手を受けて、挽回せんと打つ数々の勝負手…。
痛む胸を押さえてそれでも打ち続ける気迫を、今初めて感じたように思う。
今までは勝者である丈和の打ちまわしに感服するばかりだった。この一局がなぜ名局と呼ばれるか、そこまで考え至ったことはなかった。
「死」という言葉について、そういえば僕は真剣に考えたことなどあっただろうか?


-----ピンポーン
チャイムの音に弾かれたように、時計を見上げると10時だった。
「…はい?」
インターホンに向かって話す。
「塔矢!…俺・・・・・・」
進藤だった。
玄関の扉を開けると、迷子のように困った顔をした進藤がそこにいた。
こんな夜更けに玄関で話をしていても、近所にも不審に思われると思い、とりあえず迎え入れた。
部屋に案内して、しばらくの沈黙。進藤は碁盤の前に座り、僕は椅子に座った。
彼が心配して来てくれたことは分かっていた。けれど、あの時の言葉が胸に引っ掛かって、どうしても素直に喜べない。
「…電話でつまんない負け方したヤツの声がきけなかったからって、わざわざ顔を見にきたのか?君ってけっこう悪趣味だな」
沈黙したままの進藤に、言葉が見つからず吐き捨てる。カッと目を見開いて、僕を見上げるその眼差しの中に揺れるものに、僕はそれ以上の悪態がつけなくなった。
「…そんなわけないじゃん…塔矢…おれ、こないだのこと謝ろうと思って・・・そんで何回もかけたのにお前出なくって…だからすげーどうしようって思って…それで…」
言葉の詰まりが、胸に詰まる。
等身大の進藤。僕のことを見て、僕を心配してる進藤。
「まさかと思ったけど、あんな負け方して…あの…やけになって変なことしないかって心配で…」
「…変なこと…?」
奥歯にモノがつまったような言い様に、尋ね返すと、進藤は困った表情をした後呟いた。
「その…死のうとしたり…」
「は?」
いくらなんでも、誰がそこまで思いつめる?
しかし言い放った進藤のほうは、しごく真面目な表情だった。
僕が思っている以上に、進藤は僕のことを曲解してやいないか?
「…進藤……」
僕は呆気に取られた声を出したのだろう、進藤は慌てたかのように何度も瞬きして言葉を捜しているようだった。
「あ、へ、変だったか?そ、そうだよな、変だよな、あははははは…」
ばたばたと手を振ったりして、作り笑いを浮かべる。
あ!
ここがまた壁の入り口なんだと、今思った。
だから、僕は思い切って言ってみた。
今日なら、今なら、進藤がいつもは受け入れてくれないところまで、自分が踏み込んでいけるような気がしたから。
「変じゃない。僕は君の考えることなら変だって思ったりしない。だから進藤…どうしてそこまで君が思ったか…話してくれないか…?」







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